成田空港温泉 空の湯
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空の湯への想い

高度成長期の昭和35年(1960年)当時、より安全で快適な交通手段として航空機が認知されてくるなかで、首都圏唯一の基幹空港であった羽田では、需要が急激に伸びていました。当時の年間発着回数は3万3000回、航空旅客数は125万人。現在の首都圏航空需要は羽田と成田を合わせて83万回1億3000万人。これは当時では考えられなかった数字でしょう。航空業界は昭和32年にパンナムのB707が登場。35年にコンベア880、また日本航空が東京-サンフランシスコ線にDC-8を導入といったジェット化が始まったばかりでした。

そのような状況の中で将来の急速な航空需要の伸びを見越し、首都圏空港の機能強化が国家レベルの重要課題に押し上げられていきました。羽田の30万坪の埋め立ては東京オリンピックが開催される昭和39年(1964年)までに完了しますが、その先の航空需要には対応できません。そこで、最初に羽田の再拡張が検討されましたが、拡張予定地の水深が深すぎる事、海上交通や港湾能力に重大な影響を与える事などに加え、再拡張されても10年足らずで処理能力が限界に達してしまうという予測を踏まえ、新しい空港を建設することになりました。

当初の計画は4000m滑走路2本を含む滑走路5本、空港面積700万坪(2300ha)、国際線だけでなく、国内線も備えた巨大なハブ空港の構想でした。肝心の用地選定では、浦安、印旛沼、九十九里、白井、霞ヶ浦、谷田部、羽田沖、木更津沖、はたまた富士山麓、浜名湖、琵琶湖までが候補に上がり、混迷を深めていましたが、「航空管制」、「米軍」、「土木技術」の点から考慮し、千葉県のチベットと言われた北総台地が候補に上がりました。昭和40年、富里が候補地に内定したものの地元の大反対により、昭和41年、計画が縮小されて下総御料牧場を中心とする現在の地に決定しました。

この地は先祖から代々引き継いでいる集落(古村)と戦前に開墾された土地、戦後に開拓で入植した人たちの集落が入り組んだ地域です。古村の人々の土地に対する愛着はもちろん、重機のない時代に自らが大変な苦労をして開拓した土地に対する愛着は想像に難くありません。当初より空港建設が地域発展の好機になると推進する住民達がいた一方、反対派は富里の反対運動のように簡単に追い払えると思っていました。また、国は空港建設用地の約4割を御料牧場や県所有地を中心とすることで用地取得を楽観視し、地元に十分な説明も行わず計画は動き出しました。徐々に激化する闘争の中で、当初は平和的な解決を模索していた反対派も新左翼と共闘することにより空港問題は泥沼化していき、多くの尊い命が失われました。そして、住民の生活の為であったはずの反対運動もいつしか反国家の象徴となり、住民の為の反対運動とは言い難いものになっていきました。

そんな反対運動も双方が歩み寄り平和的な解決を模索した結果、1994年の円卓会議で終止符が打たれました。その後、2002年にはB滑走路の供用開始、芝山鉄道開業、空港南側の玄関口である第6ゲート供用開始など、徐々にではありますが空港周辺に住む人々にも光が見えてきました。

そして、現在、空港の更なる機能強化がなされようとしています。完成すれば空港面積は2300haとなり、奇しくも半世紀前の当初計画と同規模となります。空港容量は3本目の滑走路と飛行時間の延長により現在の1.6倍の50万回となり、内際分離の枠組み(国内線は羽田、国際線は成田)が無くなった羽田との競争はもとより、台頭するアジア諸国の空港間競争には必要不可欠です。成田空港の浮沈は地域経済に直結する問題であり、いまや空港なくして北総地域は語れません。

2016年、芝山町で開催された最初の空港機能強化地元説明会の時、地元住民の中には空港の重要さは認識しながらも、騒音に対するアレルギーがまだ根強く残っているように感じました。また、空港会社や行政の対策では経済的なケアはできても精神的なケアは難しい事も痛感しました。

当社は成田空港と共に歩んできた地元企業です。
私自身もこの地で生まれ育ち騒音地区に住んでいます。
創業50年を目前にして、地域に対して自分達が出来ることを考えたとき、うるさい飛行機を肴に温泉に浸かり、そして飛行機を受け入れて貰いたいとの思いが湧いてきました。

構想から3年、多くの皆様にご理解とご協力を賜り当施設が開業出来ますこと、感謝いたします。
空港周辺市町にお住まいの人達、空港で昼夜を問わず働く4万人の人達、そして空港を利用して遠くへ行く人達、来る人達に「成田空港温泉 空の湯」で飛行機を見ながらくつろいでいただきたいと存じます。
どうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい。

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